邪馬台国から大化の改新までの謎が秘められた記紀神話の聖山「日子の山」

日高見(日田神)という、蘇我、秦、葛城に通じる日高=日鷹・鷹伝説の謎を追う。

太陽という「日」・高という「鷹」。古代王権「鷹」。高天原も鷹天原という日子山(鷹巣山)。英彦山の元宮とも言われる「高住神社」も「鷹が住む神」
英彦山周辺の高木神社の高皇産霊尊も本当は「鷹」です。ペルシャと関係する暗号かも。猿田彦も猿鷹日子
祟る四天王寺の鷹にも通じるのです。

『旧唐書』に倭国は古の倭奴国なり。日本国は倭国の別種なり。邪馬台国後の4世紀~6世紀初頭は倭国(九州)とヤマトは別種だった。
九州(山陰・丹後)・新羅VSヤマト・百済の構図。つまり、磐井と継体は同盟していた。磐井の乱は嘘?

英彦山に封印された檀君

 英彦山を創建した藤原恒雄。
 恒雄は檀君神話の檀君の父「恒雄」ではないかと思われるという著書です。
 それも、添田町役場編纂というから内容も驚きの事ばかり。

      中央に座るのは恒雄

 朴成 壽氏(韓国大学院教授)
ちなみに、こちらの資料館に残っている「恒雄(桓雄)と善正法師」の絵で、どちらが桓雄かといいますと、中央に座ってぃる人物が桓雄だと思います。
 高住神社を伝える資料

 資料にはこの藤原恒雄伝承が濃厚に記述されている。別名として藤山恒雄と書かれている場合もある。
 この資料は大宰管内志中巻、善鳴録、豊西記古後本、日田郡史、豊西説話巻三、豊後国志を参考に記述されている。

 恒雄は豊国法師であるとまで記述されている。豊国法師は、蘇我馬子に呼ばれて用明天皇の内裏に入った法師。

 日子山は、昔、大己貴命(大国主命)が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。その後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大己貴命は北岳を天忍骨尊に譲り、宗像の許斐山へ宗像三神も日子山から宗像大社へと降臨していると伝えられる。出雲の国譲りに通じる。

日子山の謎   
 ※イラスト © 瑠璃様

① 英彦山は本来「日子山」という、天照大神に関連した、天孫降臨の聖山   
②日子山に眠る、大己貴命、忍穂耳命、宗像三神の謎
③ 日子山の「鷹」神話と日子山の結界を示す高木神社・大行事神社の高御産日神の「高=鷹」の意義
④日子山という葛城氏、秦氏、蘇我氏を封印した大化の改新という不比等の『日本書紀』の罠
⑤ 日子山を創建した藤原恒雄の檀君神話と恒雄は、本来「秦恒雄」だった。
⑥日子山は、原出雲であり、日向という、表裏一体の地
 推古天皇が蘇我馬子の歌に和したものと伝える歌が「我が蘇我よ、蘇我一族の君は、馬ならば、日向の若駒」。馬子は秦氏(葛城)の馬であって駒だった。
⑧藤原恒雄は豊国法師だった・・・用明天皇が危ない時に馬子が呼び寄せた豊国法師は医術と仏教の密教的、権力者としての人物か
⑨ 『豊後国志』に書かれた西から飛んで来た鷹が日田(日鷹)を創世し、田川(鷹羽)へ飛んで行った伝説は何を意味するのか。
⑩高、田は、鷹を意味し、田は天照大御神という男神も意味している。
⑪ 「天津日高日子番能邇々芸命」の日高日子を「ひこひこ」と読む。日高は日田でヒコだった。日田と日子山は鬼。


  

日子の歴史

 丹後半島に舞い降りた「天の日矛」と「都怒我阿羅斯等」という神が、この日子山に降臨し『日本書紀』の九州の卑弥呼の田油津媛と夏羽を支配する。その後、九州を支配した、『魏志』の卑弥呼の後の男王である、日矛「武内宿禰・大己貴命」は日田を中心に、九州邪馬台国以後の九州の王となる。

 そして、5世紀から6世紀にかけて、日田の葛城氏・秦氏という勢力が、この日子山を征服(日子山の大己貴命の国譲り)し、筑豊という豊国の九州王朝的な勢力(タリシ日子)をつくる。この勢力は、新羅と結びつき、日田から移動し筑豊と京都郡からヤマトへ東遷をし始める。その末裔が蘇我氏で、蘇我氏といえども、九州の操り駒にしか過ぎなかったのだ。聖徳太子の四天王寺の鷹も、九州の鷹だったのである。大化の改新は、新羅と百済の戦いの裏面があり、新羅仏教と百済仏教の戦いでもあったのではないか。そして、敗者の蘇我氏系は、不比等により、抹殺され、日子山と共に眠りについたのである。

 なぜ日田なのか。百済とヤマトと敵対した九州は、一番安全な日田を居城とした、徳川もそうしたように、進撃の巨人的にも通じる?。

日子=日向=彦   日子山→彦山→英彦山

『古事記』の天皇の諡号の日子は日子山の意  『日本書紀』は彦だが、『古事記』は日子と書く。『古事記』は『日本書紀』の嘘を暴くための書。

第1代 神倭伊波礼毘古  第2代 神沼河耳  第3代 師木津日子玉手見  第4代 大倭日子友  第5代 御真津日子訶恵志泥
第6代 大倭帯日子国押人  第7代 大倭根子日子賦斗迩  第8代 大倭根子日子国玖琉  第9代 若倭根子日子大毘毘  第10代 御真木入日子印恵
第11代 伊久米伊理毘古伊佐知  第12代 帯日子淤斯呂和気  第13代 若帯日子  第14代 帯中日子  第15代 品陀和気

※徐福が不老不死の薬を求めて英彦山に来たという。その薬が「長寿の杉」だった。


筑紫と竺紫を使い分けた『古事記』 

 「次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別・・・」九州は、筑紫と書く
  竺紫日向之橘小門之阿波岐/竺紫日向之高千穗之久士布流多氣や竺紫君石井(石井=磐井) 天孫降臨や磐井は竺紫と書く


鷹の紋



 日田、英彦山、田川には、鷹神話と鷹羽紋というつながりがあります。日田は古代は日鷹と呼ばれ、田川は鷹羽です。そして英彦山には、三羽の鷹伝承が残り、その周りには、高木神社や大行司神社、高住神社や鷹巣という鷹神が封印されている。

 
高木神社は、高皇産霊尊です。高と鷹は同じで、高天原も鷹天原なのではないかと思うくらい。この鷹の神話の原点は、都怒我阿羅斯等という武内宿禰で、[
たか」と「たけ」も同意語です。そのその末裔が、葛城や秦氏そして、蘇我氏へと結びついているのだろうか。その背後にいるのが「新羅」である。大化の改新は、百済と新羅が密接に結びついて戦っているからこそ、勝者の藤原不比等は、九州の英彦山を抹殺し、日田、筑豊、英彦山を消し去ったのである。

魏から邪馬台国・卑弥呼に送られたのは、鉄鏡だった?。日子の山もこの鏡(大己貴命の出雲の神宝)から始まる。日田との縁


今から10年ほど前に、橿原考古学研究所で、王氏が、曹操の墓から1枚の鉄鏡が出土していたと発表したが、その後情報はなかった。しかし、『三国志』展と同時にこの鏡が注目されるようになる。潘氏は、この鏡は中国なら国宝以上の鏡だと語る。
 この鏡は、卑弥呼の鏡で台与の鏡で曹操の鏡で八咫の鏡で出雲の神宝であろう。『古事記』は鉄から八咫の鏡は作られたと書く(平田篤胤・飯田武郷)



『日本書紀』の天の日矛(都怒我阿羅斯等)が持ち込んだ日鏡こそ、この鉄鏡か、それとも、卑弥呼から伝世で受け継がれてきた倭国秘宝だっかか。『古事記』の天香具山の鐵を取りて作られたという八咫の鏡は、香春岳の事だったか?。

「葛城と日田の縁」
葛城直は「九州日田の豪族として、神武天皇の東征に従」(『姓氏家系大辞典』)
止波足尼(鳥羽宿禰=景行天皇?武内宿禰?) 国造本紀、成務朝に比多(日田)国造に任じられた。葛城国造と同祖とある。

「ひたとはた」
「陂陁(ハタ、ヒタ)」、「陂陀(ヒダ、ハダ)」※陂(音読み)「ヒ」「ハ」

元、添田町役場 岩本教之氏
「英彦山の根源・拠点が日田にあった」↑動画・講演会を見てください(ユーチューブ)

大和岩雄氏(秦氏の研究) 忍穂耳命(日子山・三羽の鷹神)=忍骨命(香春・田川・鷹羽)=日子山創建・藤原恒雄(日田・日鷹)

日田を創世した鷹神話 『豊後国志』




  豊西記、豊後国志、矢野家伝などに記述された鷹神話。
  日田が湖だった頃、西から飛んできた鷹が羽を水面近くで波を起こし、夜明けの関をを決壊させ日隈や月隈や星隈が現れたという伝承である。『豊後国誌』には、日田は日鷹と呼ばれ鷹が日田を創世してその鷹が次に鷹羽郡(田川)に飛び去って行ったという記述が残される。



日子山とは




 英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。

 嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇、享保14年(1729年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山(ひこさん)」と改称され現在に至ってます。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。



日子山の創建と伝承



 英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に猟師の恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。

 しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。



日子山に降臨した檀君神話の謎



野幡能氏は日本の修験道霊山は殆んど修験道開山として役小角を祀っている。ただ英彦山だけは、檀君神話の影響下に檀君を善正上人として、修験道開山に供養しているのであります。

 以上のことから、英彦山開創については近世の書には、役小角開創などの諸説がいろいろと出てきておりますけれど、私は白山神といい、弥勤信仰といい、英彦山開創の人、藤原恒雄は実は壇君神話における桓雄であり、藤原を付会させたのはかなり後のことである。

※中野幡能 
日本の歴史学者。大分県宇佐生まれ。1943年東京帝国大学文学部宗教学科卒。大分県立教育研究所副所長、61年新設の大分県立芸術短期大学教授、68年「八幡信仰史の研究」で東京大学文学博士。83年定年退官、名誉教授。91年秋勲三等瑞宝章受勲。西日本文化賞受賞。



中央に座るは恒雄で、弟子が善正か



朴成 壽氏(韓国大学院教授)
 ちなみに、こちらの資料館に残っている「恒雄(桓雄)と善正法師」の絵で、どちらが桓雄かといいますと、弟子のほうではなくて、中央に座ってぃる人物(善正)が木の葉  (藤葛) を着物にかけていますので、私はこちらの姿が桓雄だと思います。



秦氏=鍛冶=鷹神


 
大和岩雄氏(古代史研究・大和出版社長)「朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが (但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命(天照大神の子ども=あめのおしほみみ)となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである」

 実は、大己貴命がこの忍穂耳命に国譲りしている。出雲の国譲りに似た物語。大己貴命という都怒我阿羅斯等が、どうも、秦氏に国譲りをしたのだろうか?磐井の乱から4年後に日子山を創建した藤原恒雄は新羅人だったのか、それとも磐井だったのか、謎が深まる。


鷹神が意味する地名  日田、田川




江戸時代に成立した『豊西記』には、「湖であった日田盆地に大鷹が東から飛んできて湖水に羽を浸し、羽ばたき、旭日の中を北へ去ると、湖水は轟々と抜けて干潟となった。 そして日隈、月隈、星隈の三丘が現れた。という、また、『豊後国志』には、驚くことが書かれています。日田を創建した鷹が、次に飛んで行ったのが、鷹羽だという。鷹羽とは、今の「田川」の事です。

日田=日鷹
田川=鷹羽 なので、「田」には、「鷹」の意味が含まれているのでしょうか?添田や山田という地名は「鷹」の意味が含まれているという暗号にみえてしまいます。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります



謎の藤原恒雄とは



藤原恒雄の伝承の物語を紹介する。彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師である。普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもり、時期が来るのを待った。531年のことである(磐井の乱527年)。

 このころ、豊後国日田郡に藤原恒雄という者がいて、弓射がうまくよく猟をしていた。獣を追って山に入ったときに、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、何でそういうことをしているのかと聞くが言葉が通じない。善正も恒雄に殺生の罪を話すが通じないので、恒雄は猟を続けていた。

 そのうち恒雄は善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばにカヤぶきの小屋を作って住むようになった。それ以後、二人は親しくなり言葉も少しは通ずるようになった。宣化天皇の三年のある日、恒雄は猟に出て一匹の白シカを見つけ、それが瑞獣であることを知らずに弓で射た。シカはその場に倒れたが、そのときどこからか三羽の鷹が飛来し、一羽がくちばしで矢をくわえて引き抜き、一羽が羽をひろげて傷口をなでて血をぬぐい、残りの一羽はヒノキの葉を水にひたしてシカにふくませた。すると、シカは生き返りたちまちに姿を消してしまった。

 恒雄はそれを見て、神の仕業とさとり、大いに恥じいって、弓矢を捨て、家財をなげうって祠を建て、善正が抱いて来た異国の神像(仏様=我が国ではまだ仏陀を知らない。)を安置して祀り霊山と名づけた。みずからは善正の弟子となり忍辱と名のり、修行にはげんだ。これが我が国における僧の始めである。

 恒雄は更に、シカやタカは仏の本体ではないから、ぜひ仏様に会いたいと祈ると、北岳に現身(法体)を現して「我はもと阿弥陀如来であり、神となって現れた」といい、南岳には俗形で釈迦如来、中岳には女容で観世音菩薩があらわれた。それゆえ三岳の山頂に神祠を建てて祀り、繰返し祭りをおこなったので、神々の霊応ますます顕著であったここに説明文が入ります。



日田の高住神社(豊日別神社)


「日田史参考資料十五巻・英彦山高住神社
 資料にはこの藤原恒雄伝承が濃厚に記述されている。別名として藤山恒雄と書かれている場合もある。この資料は大宰管内志中巻、善鳴録、豊西記古後本、日田郡史、豊西説話巻三、豊後国志を参考に記述されている。

 日田の江戸時代の『造領記』には、藤原恒雄の事を記述している内容が、驚きである。「橘豊日天皇(用明天皇・587年)の二年に天皇不豫群(病気)になり、内裏(天皇が住む)に入ったのが豊国法師こと藤原恒雄を蘇我馬子が賛成して呼んだもの」と書き、しかし、この事で、物部守屋が反対し、相戦し騒がしくなり、後に、彦山に帰り霊山時に寂しく後の人になり、恒雄が家は藤山(日田市)にありしと伝えている。


日子山の高住神社 創建は藤原恒雄

英彦山の高住神社の由来は、高住社伝によると御祭神は豊前豊後の国の守り神として、もと鷹巣山に祀られ、人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられている。
 また農作と深く関わる信仰から、農耕牛馬の守り神として牛馬安全の信仰がうまれ、その信仰は“豊前坊さま”として豊前豊後はもとより筑前・筑後へも伝わり、信仰の名残が小社や石碑として各地に点在している。



『古事記』が意味する筑紫とは



天孫降臨は日子山  

『古事記』  次生
筑紫嶋 筑紫國謂白日別 竺紫日向之橘小門 竺紫君石井

 天孫降臨神話は、日本神話において、瓊瓊杵尊命が、天照大神の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)った物語りである。

 瓊瓊杵尊命は天照大神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘(猿鷹日子)古神が案内をし、瓊瓊杵尊命は筑紫の日向の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。

 『古事記』では、九州全体を筑紫と書き、天孫降臨や磐井(古事記は石井)の乱は、「竺紫」と書く。竺紫の暗号とも思われる部分。磐井は、八女だが、実は、八女には、田油津媛が記述されている。田川の若八幡には、田油津媛の兄の夏羽が焼き殺されたという濃厚な伝承があります。
 私見は、竺紫とは、日子山を聖山として、そして、「豊」の意味としての日子山ではと思っている。

※ 私見の磐井(石井)の最終的な本拠地は、八女だとは思っていません。日田です。


日子とは日向? 日向は日田(相模国風土記 



 日向の向は「こう」ともよむ。ひこぅ?。
 『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。
 神話の日向は三つあって、①天照大神と素戔嗚尊と月読尊が生まれた「日向」。②天孫降臨地の「日向」③景行天皇が名付けた「日向国」。

 この日向を区別しないで混同していると『日本書紀』の嘘に騙されてしまう。①と②には日向であるが③は日向国である。『日本書紀』の天孫降臨は邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。と言い日向国とは記述されていないのである。

『海神宮 訪問神話の研究』宮島正人氏も[日向]という名称がこれほど頻繁に『記紀』に登場するというのに筑紫島の中に正しく[筑紫国]の存在は見えても一方の[日向国]の名称が出てこないのはなんと言っても不自然である。

 豊前風土記にも豊前風土記にいわく 京處郡(京都郡) いにしえ 天孫(あめみま)ここより發(発つ)ちて、日向の舊(旧)都に天降りましき。けだし、天照大神の神京(帰る)なり。云々と記述される。

相模国風土記には「当郡の郷名に 日田あり、日向と字形相似たる」「 三之宮村伝に、日向は比々多の転訛なんかと」

『続日本紀』も日田は日向と記述される


源出雲は日子山?

 大阪教育大学名誉教授ー鳥越健三郎教授は「出雲風土記には、大巳貴神が国を譲るかどうかを子供の事代主神に相談している、そして事代主神が自分で判断しているそんな権力を持った事代主神が風土記には書かれていない。この出雲は舞台にして借りたものである本舞台は何処かの場所にあるはずだ」


檀君神話とは



 檀君神話とは、十三世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王である。『三国遺事』は、高僧一然によって書かれた文献で、朝鮮半島では、『三国史記』(1145)に次ぐ古い文献である。天神、桓因の子、桓雄と熊との間に生まれたと伝えられ『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん・ワングム)という。

 桓因の庶子である桓雄は、下界に興味を持ったので、桓因は桓雄に下界を治めるよう命じ、桓雄は太伯山(三國遺事の注釈では妙香山のことであると明記されているが、白頭山とする説も散見される)の神檀樹に部下3,000人と共に天下って「神市」という国を築いた。桓雄はある熊の願いをかなえて女にし、この熊女(ゆうじょ、ウンニョ)との間に子をもうけた。これが檀君王倹(檀君)であり、朝鮮最初の国家である檀君朝鮮を築いた人物であるとされる。
 日子山を創建した「恒雄」は、檀君の「恒雄」なのか?



蘇我馬子が呼び寄せた豊国法師の謎


 豊国法師の彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。豊国奇巫といえば、明らかに朝鮮半島系のシャーマンであり、その後身である豊国法師も、おそらくシャーマニズム的な奉仕だったのだろうと中沢 新一(日本の宗教人類学者)氏は述べる。豊国法師には験力があったのだ。
 中沢氏は、柳田國男氏(日本の民俗学者)の巫女研究の跡をたどりながら、「修験道の原初をあきらかにしていくためには、どうしても東九州から朝鮮半島の南部までをひとつに包み込んだ大きな圏域のことを考えにいれなければならないという認識に、たどり着くことになる」と述べる。
 4世紀~6世紀かけて、蘇我氏(葛城、秦)のルーツが、ここに存在していたかしれない。


磐井の乱から3年後に日子山を創建した意味とは?


 
もし、この豊国法師が磐井の家系だったらと想像してしまう。恒雄が日子山を創建したのが、531年で、磐井の乱が527年。磐井はこの恒雄なのか?それとも恒雄から磐井は殺されたのか?。記紀は教えてくれない。
 私は、ヤマトによって磐井が殺されたとは思っていません。磐井は新羅と結びつき継体天皇と一緒にヤマト入りした可能性も秘めているとも考えています。



秦と日田は同意語だった


 
 辞典を見ると「陂陁(ハタ、ヒタ)」、「陂陀(ヒダ、ハダ)」※陂(音読み)「ヒ」「ハ」。ハタははヒタに転訛するのである。 日子山を創建した藤原恒雄は、日田が本拠地だった?



天皇の諡号に日子(彦)の意味は、日子山か


天皇の初代から14代の仲哀にかけて、天皇の諡号に「彦」の名がつくのは「日子山」の意味か?


推古天皇が詠んだ「日向の駒」の意味 馬子は使われる馬で駒だった


 推古天皇が蘇我馬子の歌に和したものと伝える歌が「我が蘇我よ、蘇我一族の君は、馬ならば、日向の若駒」という歌を・・・。私見であるが、馬子の父の稲目は出所がはっきりしていない。蘇我氏と言えば仏教を推し進めてきた家柄である。
 なぜ、日向の駒なのか?。素直に読めば、日向から使われている駒に過ぎない。豊国法師が馬子を使っていたのだろうか?
その蘇我と豊国法師の姿が折り重なってくる。蘇我系の葛城氏が日田に大きく関わっているのである。
 神武東征に日田の葛城直が同行した、また、日田国造りの鳥羽宿禰は葛城の祖と文献に記述されている。武内宿禰から謎解く葛城氏の謎は日田にある。



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漫画家 久世みずきが描く 日田の古代史(大分合同新聞連載)
    






※人形の画像は日田市の黒船屋様の提供です。
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